今日の禁断 |
新国 |
チケットプレゼントも終了して、あとは本番を待つばかり、今日は会場のイズミティでの前日練習です。この会場、3年前のTCCで、「アランフェス」とか「オルガン」をやった時以来、かなり久しぶりです。余談ですが、サンサーンスの交響曲第3番を「オルガン」と言ったり、今回のメインプログラムを「ブラ1」と略すのは許せますが、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最後の曲「神々の黄昏」を「神たそ」と略して言うような人は、心から軽蔑します。「ブラ1」と「神たそ」の間に何の違いがあるのだと言われるかも知れませんが、私の中では歴然とした判断基準が存在しているのですよ。その基準というのは、こういう略称を作る際の一般的な指標、つまり、「用いられる頻度が高いから、呼びやすいように短くする」というもの、これに従えば、誰でも一度は聴いたことのある、ブラームスの交響曲第1番は「ブラ1」になっても何の問題もありません。ところが、CDで4枚にもなろうという大曲「神々の黄昏」を、きちんと最初から最後まで聴く人など、殆どいるわけがありません。ですから、これを「神たそ」と縮めて言える人というのは、当然日常的にこの曲を聴いている人に限られてくるわけです。そこには、必然的に「俺はこんな凄い曲を聴いているんだぞ」という、鼻持ちならない特権意識が見え隠れすることになります。さらに、もっとたちの悪いのは、大して聴いたこともないくせに「神たそ」と言うことによって、さも聴き込んだかのように振る舞う輩。おそらく、大半はこの後者でしょう。もっと言えば、「神たそ」などと言って得意になっている人は、自らを極めて愚かな俗物であることを公表していることになるのです。しかも、本人はそのことに全く気付いていないと。こんな人は、決してそばにいて欲しくありません。
つい、興奮してしまいましたが、朝日新聞に吉田秀和先生が(お元気そうですね)この「神々の黄昏」のことを書いておられたので、今までたまっていた鬱憤を晴らしてみました。しかし、このエッセイ、オペラにおける演出と音楽との関わりについて、相変わらす深い見識が見られます。確かに、前にザルツブルクでスキャンダルとなったノイエンフェルスの「こうもり」にしても、ミンコフスキの音楽は至極まっとうなものでしたから。
それで、久しぶりのイズミティです。ステージから客席を眺めると、馴染んだ県民会館とは全く異なる、ワンフロアのだだっ広い空間が広がっています。音響的にかなり問題のあるこのホール、この間抜けな広さがその原因なのかもしれません。岩村さんは何回も客席に降りていってオケの音を聴いていましたが、かなり大変なホールだと思った様子。「キャッツ」のせいで、ニューフィルが使えるようなホールはここしかなくなってしまったのですが、専用のホールを造るという話はどうなったのでしょう。あ、もちろん、「四季専用」ではなく、「音楽専用」のことですが(む、虚しい)。 |
aventure number : 0344 |
date : 2004/4/16 |
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