徒然癖

末廣 誠



 私は考える事が大好きだ。考える事が指揮者の仕事だからいつの間にやらそうなったのか、その逆か分からないけれど、とにかく暇さえあればあれこれ考えている。もっともこの程度の頭脳だから余りまともな事が浮かばないのが少し寂しい。考える事は何でもいい。大抵はどうでもいいような事だ。例えば冷蔵庫の野菜室に入れてある野菜は何故成長するのだろう。空気中の水分を取り込んでいるらしいが、ホントだろうか。私はいつでも懐疑的だ。もしかすると夜中にそっと水飲んでるかも知れないぞ。チルド室にある魚は育たないから(当たり前だろ!)、やはり野菜は生きているらしい。となると、野菜は一体いつまで生きているのだろうか。さすがに火を入れたら生きちゃいめえ。しかし分からんぞ。しぶとく生き続ける椎茸とかいそうだな。サラダなんかは口に入れるその瞬間は、奴らは絶対まだ生きてるんだろな。「わあ!食われる!」なんて思ってんのかも。これは問題だ。シーシェパードに狙われないかな。
 シーシェパード!ああ!あの連中の独善的な暴力には反吐が出るな。あれほどの独りよがりは、他には指揮者と最近の民主党ぐらいだぞ。日本のイルカ漁を隠し撮りして告発映画作った愚か者もいたな。間違った文化は正さねばならないんだと。お前に言われたくない!ならアボリジニ族にタランチュラ食うなと言いなさい。気持ち悪い。私は蜘蛛が天敵なんだ。中国人に犬食うなと言いなさい。あんな可愛い動物を・・・。お前ら牛も豚も野菜もなあんにも食うなよ。余計なお世話だあああ!おっと、興奮しちまった。つまりは相互理解の問題なのだ。単純に良い悪いで考えるからおかしくなる。昨今のマグロの騒ぎも、要は乱獲をどう管理するかの問題な訳で、あんな乱暴で安易な論理は、単純なアメリカ好みだな。
 脱線したぞ。そう、野菜は生きているという話。どうやら空気中には沢山の水分があるらしい。息してても喉乾くのにな。水分と言えば、世界中には数えきれない河川があって、一瞬も途切れる事無く恐ろしく膨大な水が海に注ぎ込んでいるのに、何故海は溢れないんだろう。それに何故塩分が薄まらないのだ?知ってますよ、一応。その分南洋でもの凄い勢いで蒸発しているからですよ。それにしてもだよ、これは河か?海か?みたいな大河も世界にはわんさかあるんですからね。いくら何でも追いつかない気がするぞ。ここでやはり私は誰も知らない秘密を暴露せねばならないな。ふふふ。実はね、地下に世界規模の水道管システムがあって、海の水はそのまま水源地に引き込まれているのです。これ、お茶屋さんの前に置いてある、永久に茶を注ぎ続ける急須のオブジェを見て気づいたのだ。世の中気づきに満ちているぞ。オホン、では何故水源地の水には塩分が無いのか。そりゃ濾過されているからに決まってる。そこで取り除いた塩は、夜な夜な秘密結社「世界塩補給団」が海に投棄しているのですよ。・・・・馬鹿かお前は、なんて言ってはいけません。世の中奇々怪々な事は沢山ありますからね。私、秘密結社考えるのも大好きだ。



 えっと何の話だ?そうそう野菜は生きている、て話だ。例えば樹木は地中の水を毛細管現象で吸い上げているんだそうな。誰が水やる訳でも無いのに、地中にはそんなに水があるんだろか。空っからに乾燥した日が続いても、木々は枯れずに生きている。どうやら「世界樹木給水団」もあるに違いない。しかし誰に苦情を言う事も無く静かに生きている姿は憧れるな。美しい。それどころか彼らは木陰を作り、葉から酸素も作り、種類によっては果物も作り、何も求めず与えてばかりいる。見返りを求めないからこその美。ますます憧れるな。食べ物に汲々としているのは人間だけらしい。神様はどんな生き物も分け隔てなく養って下さる・・・と私は時々アッシジの聖フランチェスコになる。考えてみたら、自然界の循環には何一つ無駄な物が生まれないようだ。無駄な物を生み出すのもどうやら人間だけらしい。
 無駄な物と言えばゴミ。レジの袋が有料になり、割り箸止めて自家箸を使うようになったこのご時世に、我々音楽家の世に逆らった有り様は一体どうだろう。演奏活動は非生産活動の最たる物だけれど、僕らは平気でゴミを量産している。演奏会のチケット、チラシ、プログラムは完全にゴミになるし、切れた弦は捨てるし、中には燕尾服忘れて帰る奴もいる。何と言っても弁当の残骸は凄まじいものだ。オペラなどやると、歌い手やオケの他に、舞台装置、照明、衣装、化粧といった何十人ものスタッフが動いているから、食べ終わった弁当箱など、家庭用大型ゴミ袋で軽く十袋ぐらいになる。ダブルキャストで二日公演ならその倍だ。楽屋口に積まれたあの残骸見ただけで、ああ、僕らは世の中の役に立っていない、といつも思っていた。だからその分を補って余りある何かを演奏で示さねば、と思ってしまう。これ程社会に迷惑をかけているのに、何故演奏会は無くならないのか。何故人は音楽は求めるのか。この下らない長々とした駄文は、実はここを目指していたのだ。



 それは目に見えないものが大切だと誰もが本能的に知っているからだ。目に見えないもの、それは心だ。心を豊かにする事が人間にはどうしても必要だ。しかし理想的な豊かさに成長するのは至難の業だ。神様はどうやら最も困難な課題を人間には課したようだ。いつも顔を会わせる隣人同士でさえ分かり合うのは難しい。ましてや異文化同士の相互理解は、困難を極める。私中国人嫌いだし。それに力=武力を行使しやすい方が正義面してしゃしゃり出る。どこぞの合衆国みたいに。クジラでさえあの暴力沙汰だ。敵対心、利己主義、差別意識、誤った優越感、そういったものを乗り越える為に、やはり心の成長が必要なのだ。音楽はその為に存在してるのだと私は強く思う。もしも音楽が本当に人の心を動かし、そこに揺るぎない幸福感と愛情を培う事ができたなら、この世から全ての争い事が消える筈だ。だから私は自戒を込めていつもこう思う。『世界から戦争が無くならないのは、音楽家がダメだからだ』と。心、愛情、思いやり、そういった目に見えないものを実感するのは難しい。人間はすぐにぶれる。でも在ると信じる事はできる。まずはそれが在る事を信じる事から始めなければならない。信じる為には心を育てなきゃならない・・いたちごっこみたいだな。
 「昼間の星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」
 週一回耳にするこのテレビコマーシャルご存知?私はこの言葉が大好きだ。手に触れる事のできるものを信じるのは容易い。だからこそ目に見えないものを信じ、感じ取る為に心を育てなきゃならない。自然界を破壊し続けている私達は、それぐらいの努力をしないと、そのうち神様達のシーシェパードに自然淘汰されるかも。だって一度ノアの洪水でみんな殺しちゃったんでしょ?



 そう言えば、ジャズピアニストの山下洋輔氏がエッセーの中で確かこんな事を言っていた。
「ピアノを弾き終わって、楽屋に若いカップルが現れて"これで駆け落ちの決心がつきました"なんて言われたい。」
 正確ではないが、確かこんな内容だった。表現はふざけているけど、実に快哉を叫びたい考えだ。音楽家としては、これぐらい誰かの人生を動かしてみたいものだ。もちろん演奏でね。私のような者でも、時折「感動しました」と楽屋を訪ねて下さる方がいらっしゃるけれど、演奏者も観客も、何故この感動がそのまま生きる指針にならないのだろう、といつも思う。例えば心打つ話を耳にして、感動の涙をこぼしても5分後にはもう忘れてしまう。良い例が第九だ。人類愛を高らかに歌いあげ感動し、直後に気に食わない友人と喧嘩する。
 これはきっと、音楽が人生の外にあるからだ。音楽に限らず美術も文学も、そこから得た感動を自分の生き方の中に取り込む事が出来ないんだと思う。感動はしてもそれはそれ。ベートーヴェンに感動してもそれは、ストアで安い見切り品を漁って子供を叱りつけながら食事を作る糧にはならないと思ってしまう。確かに現実的な役には立たないだろうな。だからこそ見えない心を育てねばならないんだ。芸術を人生の中に置く。分かりにくいな。つまり感動した意味をいつも忘れないように生きる、という事かな。以前は第九を演奏するのはある種の罰だと信じていた。いつまで経っても友愛に程遠い人間達に課せられた罰。理想は「昔はこの作品で友愛を訴えなきゃならない時代があったよねえ」なんて言いながら茶をすする世の中。それまでは幾万回でも演奏させられるのだ。でも最近は少し変わって、第九はもしかしたら薬なのかも知れない、と思うようになった。慢性的な人類の病を癒す薬。一時的にせよ感動を覚えるのなら、それはそれでいいんじゃなかろか。私も少し歳を取りましたよ。ただ残念な事にこの薬、即効性がある代わりに持続性が無い。感動の意味を忘れないように生きるのだ。お年寄りに席を譲ったり、落ちているゴミを拾ったり、おはよう、こんにちはの挨拶を欠かさず、いつでもありがとうを忘れず、そんな日常的な事柄と同じように、第九の伝えるメッセージを片時も忘れないで生きるのだ。音楽はある意味道徳なのだ。



 こんな偉そうな事を言いながら、自分は酷い有様だ。すぐに車内のおばさんに腹を立て(おばさん、スーパーの袋をいつまでもガシャガシャいわせるのは止めてくれ!)、傍若無人な女子高生をぶん殴り(んなでかい声でしゃべるな!耳悪いんか!)、空き缶をポイ捨てする青年を絞め殺し(その空き缶お前ん家に放り込んでやるぞ!)、音程の悪い演奏者を射殺したくなる(これに関してはノーコメント)。やれやれ、1番理解してないのは自分かも知れない。この分じゃ当分第九をやり続けさせられるな。え?一生やってなさい?そうだよねえ・・。