東昌寺の歴史


 東昌寺は1283年(弘安6年)福島の伊達の桑折という所から始まりました。伊達家の初代から3世までははっきりとした形の菩提寺というものは持っていませんでしたが、4世の伊達政依という方は仏道の帰依が厚く、自分自身の寺としてこの東昌寺を作ったのです。つまり、伊達家最初の菩提寺ということになります。
 同時にご先祖の寺、すなわち初代夫妻のお寺として2ヶ寺、そして3世、つまりご自分の両親のお寺2ヶ寺を含めて、全部で5つの寺を作りました。これが京都や鎌倉の「五山」にちなんで「伊達五山」と言われたものです。東福寺正覚庵、山叟恵雲和尚(勅謚佛智禅師)にお願いして各寺の開山になってもらいました。お隣の光明寺さんは初代の奥さんをまつった寺であり、北八番丁にある満勝寺さんが初代さんをまつった寺なのです。そして3代目夫妻をまつった寺が、観音寺、興福寺というお寺なのです。この二ヶ寺は現在では廃寺になっていますが、資福寺がこれを吸収し、さらにこの資福寺から覚範寺が別れました。すなわち現在この北山の地にある東昌寺、光明寺、資福寺、覚範寺、そして満勝寺(最初は北山にあって後に北八番丁に移りました)というこの5つの寺が、1283年に伊達政依によって作られた伊達家最初の寺の流れなのです。その中でも東昌寺は政依自身の寺ということで、非常に重要視されました。室町時代には、東昌寺は「安国寺」という名称も頂いています。この「安国寺」というのは、全国で何箇所か選ばれた国営の寺だったわけで、一寸お おげさな言い方をすれば東昌寺は「陸奥随一の寺」でありました。当時は三百人の修行僧が居たという記録も残っています。
 伊達家の居城が移るたびに寺も一緒についてまわりました。1383年(永徳3年)、第5世韻陽和尚の時には伊達氏8世宗遠に従い羽州置賜郡長井荘米沢郷夏刈村、更に1590年(天正18年)、第14世大有康甫和尚(伊達政宗公の大叔父にあたる一風軒和尚)の時には伊達氏17世政宗に従って岩出山に移り、1600年(慶長5年)の仙台築城に際して、現在の北山の地に移りました。この時も、東昌寺は非常に重要な場所に造られました。即ち、芭蕉の辻から通じる街道のまさにつきあたりに位置し、お城から見て丑寅の方角ということで、江戸城における寛永寺のように、鬼門よけの寺として最重要視されたのです。現在は芭蕉の辻からのつきあたりには青葉神社が有りますが、これは明治時代に造られたもので、元々は今の青葉神社の敷地の中心に東昌寺があり、それを囲むようにして東に満勝寺、光明寺、西に覚範寺、資福寺が並び「五山」をなしていたわけです。今では俗に「北山五山」と言われているその真ん中の位置にこの東昌寺を据えたというところに伊達家との深いつながりを見ることができます。
 1612年(慶長17年)には塔頭5ケ院を創立、1643年(寛永20年)には伊達氏18世忠宗から三百石の寺領を附せられ、一門格に班するようになりました。
 しかし、明治維新とともに、第32世敬州和尚の代に至って伊達藩の外護を失ってしまいます。1873年(明治6年)10月には、境内の西側に藩祖政宗を祀る青葉神社が建設されたために、寺の建物は現在地に移転されました。この伽藍や殿堂は1876年(明治9年)4月18日に起きた山火事によって全て焼失してしまいましたが、1900年(明治33年)3月には新しい殿堂・庫裏が完成しました。現在の建物はその後33世恵修和尚、34世泰嶺和尚、35世泰泉和尚の代に修復を加えられたものです。
 2000年(平成12年)7月9日には、開山佛智禅師と開基伊達政依公の七百年遠諱法要が執り行われました。(別項参照)
 2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災では、東昌寺も鐘楼が崩れるなどの大きな被害に遭いました。しかし、2013年(平成25年)中には、ほぼ復旧工事が完了しました。(別項参照)


 尚、この記述は東昌寺内に伝えられている資料を基にしたもので、歴史的研究が充分にはなされていない部分も含まれています。
 さらに正確な歴史とするために、お気づきの点がございましたら、なにとぞご教示いただきたいと思います。

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